晴天まっサオイズム

日常、社会、政治、経済、を中心に意見発信していく場として活用します。

社会における実践と学問について

Facebookと書いてることほとんど一緒です。

 

大学3年生になりました!!

 

今年度より、第一志望の「計量政治」のゼミに入ります。
「いよいよ」という心持ちで、実際の授業が始まることが楽しみでなりません。

 

一方で不器用さ故に、このような「学生」として求められる態度と「学生団体」として求められる態度の相性が、必ずしも良いとは言えないことを悩むことがあります。

 

社会において何かを発信する時は、どこかで「コレはコレ」と決めてしまわなければなりません。

 

現実は、こうかもしれないし、ああかもしれない。理想は、こうかもしれないし、ああかもしれない。


しかし、意志を持って半ば暴力的に「エイヤッ」と決めてしまわなければならない時が多々あります。

 

それは、私がどこか「辿り着いていない」証拠かもしれませんが、、、

 

一方で、このような態度は学問の世界で望まれるものではないでしょう。学問について語るには、学部3年生レベルでは青すぎると思いますし、同じ学問においても様々なモデルがあると思われます。その上で、今の解釈をお話しします。

 

私の中での学問は「エイヤッ」とは相入れない世界です。一方で、辿り着いてもいけないような世界です。あらゆる答えを出す上で、前提に自覚的でかつ、客観的であろうとするような態度が望まれる世界だと思っています。むしろ決断とは無縁の世界です。

 

これらの態度を取るには、対象を見渡すだけの高い視野が求められます。


それは、実際の社会、特に「エイヤッ」という決断とは一定の距離が望まれます。

 

この点で、社会での実践と学問との葛藤に悩まされることが少なくありませんでした。

 

その中で、私に望まれることは社会における意志決定、言ってしまえば「エイヤッ」に対して、できるだけ誠実であり続ける態度だと思っています。

 

自分が決断の世界に身を置くと決めた以上、結局その葛藤のなかで、耐える他ないように思われます。

 

誠実であるためには、やはり学問は必要です。

「思考と実践の両輪を回せ」と良く言われます。ここでの思考が実践の手段となるものではなく、批評を試みるようなものでありたいと思っています。

 

学問で高い視座を保ちながら、実践の中で誠実な決断を両立できるように邁進していきます。

皆さま、今年度もご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

 

正生 雄大

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共同体と意味の獲得について

※全く推敲していない。殴り書きだから、多分文脈すっ飛ばして、わけわかんないこと書いてます。

僕のブログだからそんな感じいいや

 


私たちはなぜ未来に対して責任を負っているのだろうか。

 


僕は、なぜか未来に対して責任を負わされている。

 


典型的なのはSDGsなんかそうだし。

 


ジョン・F・ケネディもよく言っていた。まだ、決断を下すことのできない未来のアメリカの子供達のために。云々カンヌンみたいな。

 


そもそも責任とはどこで発生するのだろう。一般的には、自分の意思で。自由意志でやってしまったことに対して生じる。

っていうことで社会は回っているのだろう。

 


自分で犯罪を犯した。

自分で騙された。

自分で受験に落ちた。

 


そこに自分の意志じゃない。社会的な条件が多分に含まれているとするならば、自己責任じゃないよっていう話にもなってくるが。

 


さて、なぜ私は未来に責任を負っているのか。

 


何もやらかしてはいない。

いや、やからしたのは私ではない。それは地球であり、国家でありつまり共同体だ。

 


さらに、私は生まれたくてここに生まれたわけではない。選んでないのに責任を負っている。

 


確かに、それがなければ人権も所有権を確保されないであろう。

 


しかし、それだからと言って未来に責任を負わされる理由となりうるのか。

 


さて、僕も20歳になる。誰が、365日で一つの周期を回ると決めたのだろう。大人と子供を区切ると決めたのだろうか。そこにいるだけで文脈の中に埋め込まれていくから恐ろしい。おめでとうなんて言われると、尚更組みこまれていく。恐ろしいようでありがたい。

 


生かされてくれるのか

生きているのか

生かしてくれているのか

 


そう、文脈である。なぜか私は、共同体の文脈の中で生かされている。あるいは生かしてくれている。家族であり国家であり宗教であるかもしれない。

 


国家は昔から続いていてこれからも続いていくだろう。(ということに勝手になっている)。

正生家の血も未来永劫続いていくだろう。(ということに勝手になっている)。

 


と、してしまえば僕にも意味が見えてくる。

 


確かな共同体の文脈の中で、欠かせない一部になるのだ。

 


祖父がいて、親父がいて、僕がいる。僕を欠かしてこれからはない。

 


国家もそのように解釈できるのではないか。

 


責任を負えば、即ち共同体に意味委ねれば永遠の自己が与えられるかのような。つまり、自己保存だ。

 


改めていうなら、僕は責任を負いたいから未来に責任を負っているのだ。ある種の弱さである。それに過ぎないのかもしれない。

若者の投票率向上における二つの態度

こんにちは!

本日は、「若者の投票率という問題を捉える上で、いろいろ考えたことを綴ろうと思います。

 

さてさて

世間では、沖縄県知事選挙が話題ですが「選挙の度に」と言っていいほど若者の投票率が問題に上がります。

 

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例えば、去年の衆議院選挙において投票率

10代 40.49%

20代 33.85%

最も高い年代になると

60代 72.04%

50代 63.32%

というように、投票率の低さは自明でしょう

地方選挙となれば世代別投票率10%まで低下することもあります。

 

参照:総務省 国政選挙における年代別投票率について

(http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/)

 

それでは、なぜ若者の低い投票率は問題なのでしょうか。

そこには2つの角度から違った問題意識があるように感じます。

 

1つは、若者が投票に行かない結果若い世代に政策的な不利が生じてしまうこと。

 

つまり、政治家の目線からすれば、投票してくれない層にアピールする必要がないから

投票率が高くて人数も多い高齢者に向いてしまう

結果としてあらゆるサービスが高齢者偏重になるよね

 

といったことに対する問題意識です。

これは凄く分かりやすいですね。

シルバー民主主義って呼ばれ方をされたりします。

 

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一方で、もう一つの考え方があると思います。

それは、投票に行かないことが表す若者の政治の興味のなさが問題だということ

 

民主主義の理念としては一人一人が政治家であるのだから、責任を持ち主体的な市民となるべきだという態度です。

 

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この二つの考え方は、対立するものではないですが、一方で似て非なるものだと思います。

 

例えば、投票率を上げるために

投票すれば1000円貰えるというシステムにしたとするならば

 

前者の立場からは、

結果的に投票率が上がればそれでいい

ということになるし

 

後者の立場からは、

思考することや議論することといった要素を省いた

民主主義の当事者としてはレベルの低いモチベーションである。として、ネガティブなものに映るかもしれません。

 

また別の角度から見れば、

 

前者からすれば、極論

投票率が限りなく低くても、それはそれで政策的にフェアならそれで良い

ということになれば

 

後者からすれば、極論

高齢者も高齢者で投票に行かない30%は問題である

ということになります。

 

また、投票率がただ単に上がればそれでいいのか?

という問題に対しては、

 

前者は、

それで政策的にフェアであればまぁ良い。

ということになり

 

後者は、

投票率に加えて投票の。あるいは、投票に至るまでのプロセスの充実性。などにまで強い関心が及ぶのではないでしょうか。

 

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私の立場としては、民主主義というものが目的化してしまうことに危惧しており

歴史の暫定解の程度で捉えているため前者の立場が強いのですが

 

民主主義の強みである

一人一人が平等に扱われるという道徳的な最もらしさや、

政治的な決断に一人一人が責任を持てる

という点においては、共鳴する部分も多いです。

 

同じ問題にフォーカスしていたとしても、

この立場の違いによって、何となく話が噛み合わなかったりするなぁ、、、

ということを思うことが多くなりました。

 

投票に行くことが大切なのか

政治に興味を持つことが大切なのか

民主主義を守ることが大切なのか

政策がフェアに行われていることが大切なのか

 

何が手段で、その先に何があるのか

 

時には、そもそもの問題意識に立ち返って

深掘って言語化してみることが大事な気がします。

宣戦布告

皆さまお疲れ様です。

 

今年度は、ブログを更新していきます。

 

当然ですが、

いいインプットなしにアウトプットなし

逆に申し上げれば、

いいアウトプットの機会なしにいいインプットは得られないのではないでしょうか

 

それを思い立ったのが再開の理由です。

 

つまり、ある程度の母数が見るブログを更新しなければならない環境にいることで

常に自分を高めなければならない環境にできるのではないかということです。

 

大学1年で、様々なことに挑戦してきました。

ivoteとして、ニュースゼロはじめ、各メディアに取り上げていただいたり、

公開討論会のコーディネートを務め、ニコ生のpv数を1万以上記録したり

全国新人弁論大会に出場したり

大学でのレポートで優秀レポートに選出していただいたり

etc....

 

しかし、私自身が成長できたのか??

という問いに自分の中で胸を張れない

 

若くして生きていれば、それなりに何かを身につけていくのは当然です。

 

その中で、本当の意味で成長をしていくうえでは、自分の中で心地よい空間から抜け出していかなければなりません。

 

それは、恐らく簡単なことではない。

必要なのは覚悟です。

そして、その覚悟を実現するのは環境でしかないように感じます。

これは、そのためのブログです。

 

ここで大学2年での目標をお話しさせていただきます。

・ivoteの代表に就任しましたので、腹をくくって、その任を全うさせていただきます。投票率を上げるということに関して本気になります。

・弁論大会で勝ちます

・大学では1年、主に政治思想・哲学を中心に勉強します。ベイズ統計に興味がありますが、それを解釈する。意味を見出す、力を養います。

・プログラミング の勉強を始めました。HTML、CSSから始めます。政治に加えてテクノロジーの仕組みが分かるということで比較優位を作ります。

 

僕の最大の関心は、

自分が何者で、自分は何のために生きているかということにおいて、

自分の中で納得がいく何かです。

 

これを聞くと、ものすごく自己中心に感じます。「結局は自分のためである」。そんな自身に悩み苦しむ時期がありました。

 

しかし、他者や社会なしに、自分なし。

世の中の幸福を自分に投影していくことで、存在意味を知る。

それはそれで、カッコ良いのではないかと思い直しました。

 

モデルはアンパン◯ン大先輩ですね

そういうことです

 

世の中に何かを発信することは、相応のリスクがあることです。

一方で、これからの時代は「個人のエンパワーメント」、私そのものの価値、魅力的であることが求められています。

 

今回の投稿は、自分自身への宣戦布告です。

 

自分がどれほど価値を高めていけるのか

 

それを試す場にしていきたいと思います。

 

最後まで、読了いただきありがとうございました。

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