晴天まっサオイズム

日常、社会、政治、経済、を中心に意見発信していく場として活用します。

共同体と意味の獲得について

※全く推敲していない。殴り書きだから、多分文脈すっ飛ばして、わけわかんないこと書いてます。

僕のブログだからそんな感じいいや

 


私たちはなぜ未来に対して責任を負っているのだろうか。

 


僕は、なぜか未来に対して責任を負わされている。

 


典型的なのはSDGsなんかそうだし。

 


ジョン・F・ケネディもよく言っていた。まだ、決断を下すことのできない未来のアメリカの子供達のために。云々カンヌンみたいな。

 


そもそも責任とはどこで発生するのだろう。一般的には、自分の意思で。自由意志でやってしまったことに対して生じる。

っていうことで社会は回っているのだろう。

 


自分で犯罪を犯した。

自分で騙された。

自分で受験に落ちた。

 


そこに自分の意志じゃない。社会的な条件が多分に含まれているとするならば、自己責任じゃないよっていう話にもなってくるが。

 


さて、なぜ私は未来に責任を負っているのか。

 


何もやらかしてはいない。

いや、やからしたのは私ではない。それは地球であり、国家でありつまり共同体だ。

 


さらに、私は生まれたくてここに生まれたわけではない。選んでないのに責任を負っている。

 


確かに、それがなければ人権も所有権を確保されないであろう。

 


しかし、それだからと言って未来に責任を負わされる理由となりうるのか。

 


さて、僕も20歳になる。誰が、365日で一つの周期を回ると決めたのだろう。大人と子供を区切ると決めたのだろうか。そこにいるだけで文脈の中に埋め込まれていくから恐ろしい。おめでとうなんて言われると、尚更組みこまれていく。恐ろしいようでありがたい。

 


生かされてくれるのか

生きているのか

生かしてくれているのか

 


そう、文脈である。なぜか私は、共同体の文脈の中で生かされている。あるいは生かしてくれている。家族であり国家であり宗教であるかもしれない。

 


国家は昔から続いていてこれからも続いていくだろう。(ということに勝手になっている)。

正生家の血も未来永劫続いていくだろう。(ということに勝手になっている)。

 


と、してしまえば僕にも意味が見えてくる。

 


確かな共同体の文脈の中で、欠かせない一部になるのだ。

 


祖父がいて、親父がいて、僕がいる。僕を欠かしてこれからはない。

 


国家もそのように解釈できるのではないか。

 


責任を負えば、即ち共同体に意味委ねれば永遠の自己が与えられるかのような。つまり、自己保存だ。

 


改めていうなら、僕は責任を負いたいから未来に責任を負っているのだ。ある種の弱さである。それに過ぎないのかもしれない。